お見舞いの言葉は被災者には届かない。

社会 comments(0) trackbacks(0) しの☆まゆみ〜な
このエントリーには、こむぎも幸福兄弟も一切出てきません。内容的に不快になる方もいらっしゃると思いますので、なんならスルーしちゃって読まないでくださいね。

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今回の栃木県の鬼怒川氾濫による被害は甚大で、被災された方も非常に多くて、被災地以外のたくさんの方が心を痛めていらっしゃいますね。わたしが毎日のようにチェックする犬ブログでも、被害に合われた方へのお見舞いの言葉を書いていらっしゃる方は多いです。

そのことは、全く悪いことではないし、そこには善意しかないと思っています。

ですが、わたしはそういう言葉を自分が発しようと、全く思わなかったのです。むしろツイッターでは、救助活動に尽力される自衛隊のことを知り、自衛隊には『軍隊』にはならず、今のままの災害の時に救助に駆け付けてくれる自衛隊で居てほしい、というようなことばかりを書いていました。

そんな中、相互フォローの方が、「災害に乗じて、右も左も自分たちの主張をここぞと言い立てて、他人のことなんて考えてないことが分かる」という旨のツイートをされていて、ちょっとドキリとしました。これは、自分に向けられた言葉かもしれない、と。

それで、どうして自分は被災者を気遣うようなツイートをできなかったんだろう?と省みて、これだろうな、と思う理由が2つあることに気づきました。

一つは、わたしが生来、そういった『遠くにいる人』まで思いやれる想像力とか共感力を持ち合わせていない、ということです。同じ境遇の人、例えば、うつや、他の精神的な事で苦しんでいる人に対しては、会ったこともなくネットで言葉を交わすだけの相手にも共感したり、自分の経験を語って、少しでもヒントになればいい、楽になってもらいたい、と思ったりできます。

でも、ほんとうに見知らぬ、接点のない、ネットの向こうの不特定多数の人に対して、共感を持つことが、気持ちを寄り添わせることが、できません。それは、わたしの欠陥でしょうね。

もう一つは、わたしが、ネット上で即日示される見舞いの言葉が、決して当の被災者に届くことはない事を知っているからです。何を偉そうに、被災者でもないくせに、と言われるかもしれませんね。

特別ネットやパソコンの知識がなくても、誰でもが気軽にツイッターやブログで発信することができるようになって、最初の大きな災害が、おそらく東日本大震災だったと思います。

わたしは、その時つくば市にいて職場で地震に遭いました。幸い、職場ではけが人もなく、建物も無事で、1時間ほどの屋外退避の後、各自帰宅するように言われました。

車で5分のところに借りていたアパートに帰ると、うちの中はぐしゃぐしゃで足の踏み場もなく、テレビは吹っ飛んでるし、棚なども倒れていました。そして、すぐに夜になりましたが、もちろん停電で真っ暗。母が災害に備えて用意していたラジオと、わたしのiPadだけが情報源でした。

わたしがツイッターを始めたのは2010年のことですが、まだその頃はツイッターのサービスが普及してはおらず、新し物好きの友人が始めたので、その人と話をするために始めたようなものでした。現在のツイッターしか知らない人には、分からないかもしれませんが、それこそ身内だけのチャットのようなものでした。

でも、震災で停電のためにテレビも見ることができず、何も様子が分からない中、ツイッターはとても活躍しましたね。わたしは、東北を津波が襲ったことも、福島で東電の原発が事故を起こしたことも、ツイッターで知りました。そのくらい、ツイッターは大切な情報源になりました。

当時は、まだツイッターでお見舞いを表明する人はいませんでした。「がんばれ東北」みたいな言葉が流れ始めたのは、震災からしばらく経ってからのことでした。

もし、あれが今だったら。たぶんたくさんの「被災された方にお見舞い申し上げます」「被災地のことを心配しています」という言葉が飛び交ったでしょうね。

だけど。もしあの時、そんな言葉がTLに氾濫していたら。

正直、いらない、情報が流れていってしまうからやめてくれ、と思ったと思います。また、当時決まったブログをチェックする習慣があって、そのブログにお見舞いの言葉が書かれていたとしても、わたしは読むことができませんでした。停電が復旧しても、部屋の片づけとかでパソコンどころじゃありませんでしたから。

だから、わたしにとって、ツイッターにお見舞いの言葉を書くのは、邪魔でしかありません。もっとも、自衛隊云々のツイートだって邪魔ではありますが。また、ブログで(当日または数日の間に)お見舞いの言葉を書いても、残念ながら、当の被災者は読まないことを知っています。

ツイッターであれ、ブログであれ、不特定多数のネットの向こう側の人に対してお見舞いを書いても、それは、言葉はアレですが、屁のツッパリにもならんです、みたいなもんです。もちろん、書かれる方は、善意からだし、被災者のことを思うと書かずにいられない、自分達はなんの変わりもない日常に居ることがすまないような気がする、という思いもあると思います。

それが間違ってるとは全く思いません。ただ、単純に、自分がぷち被災者になった経験から、それは届かないよ、と思うだけです。当人の自己満足か、お見舞いの言葉を添えたから、という免罪か、そんなものでしかない、としか言いようがないだけです。

こういうことを書いてると、自分がお見舞いの言葉を書かなかった言い訳だろ?と思われるでしょうし、それで構わないと思っています。確かにある意味、言い訳ですし。上述のとおり、なんでお見舞いの言葉を書かなかったんだろう?という自分への問いかけの中で出てきたことですから。

でも、今日幾つかのブログで、お見舞いの言葉を見て、正直白けた気持ちになったのは事実です。

もし、震災の時、ブログを見ることを楽しみにしていたら、ブログを見れるようになった時、いつもの楽しかったり癒しだったりする普段通りのブログの方が、慰めになった気がします。むしろ、「がんばってください」とか「お見舞い申し上げます」とか書かれてたりしたら、当事者じゃないから言えるんだよ、って反発したかも。

だから、もしどうしてもお見舞いの言葉を言わずにいられないなら、数日後にするか、当日から毎日のように書くか、の方が届くと思います。当日だけ、お見舞いの言葉が書いてあって、その後はなんにも書かれてなかったら、ああやっぱり形だけの言葉か、って思っちゃうかも。

そんなひねくれたこと考えるのは、わたしだけかもしれませんけども。

このエントリーを読んだ方の中には、不快に思われた方が少なからずいらっしゃると思います。そういう方には、不快にさせてしまったことを、先にお詫びしておきますね。

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