『戸』籍って必要?

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戸籍。

 

先進国ならあるし、もちろん日本もそうで。

 

でもね。

 

アメリカなんかは出生証明書だけ、らしいんですよね。

 

ツイッターでフォローしてる外国人の方がね。

 

先般の蓮舫さんの二重国籍に関する話題の中で、「戸籍なんていらないんじゃないの」と仰っていて。DVとかから逃げるにも戸籍って足かせになる面もあるから、出生証明書だけでいいじゃん、って。

 

ああ、なるほどね。

 

と思いました。んで、リツイートしたんです。

 

そしたら。

 

フォロワーさんがね、「戸籍のない人なんて誰が信用すんの」っておっしゃってて。

 

「いぬにもこせきってあるですか?」

あるよ!こむちゃんは、畜犬登録してあるからね、「いぬのこせき」があるよ。

(わんこの飼い主さん、畜犬登録と、毎年の狂犬病予防接種、お願いしますね!)

 

確かにね、戸籍のない人は信頼されないですよね。少なくとも先進国では、戸籍なしでは生きていけない。

 

でも。

 

と、その人にリプライを書いてて思いました。

 

いらないのは『戸』籍。

 

必要なのは、『個』籍。

 

じゃないかなあ、って。

 

アメリカみたく、出生証明書だけでもいい。『個人』が「何年何月何日にどこどこの国に生まれました」って証明があって、その同一性が担保されれば、『戸』(家族)を単位とする『籍』は要らないんじゃないの?と思うんです。

 

日本って『家』意識が強い国ってイメージだけど、明治維新前だと上流階級の人たちは『家と家』の結婚だったらしいけど、庶民はそうでもなかったらしいし、ましてや今は21世紀なんだし、どんどんアップデートされていいと思うのね。

 

『個』籍になれば、「籍に入る」とか「籍を抜く」とか要らないし、結婚も、最近認められるようになった同性パートナーシップ制度とそろえて、パートナーシップ制度って一括りにしちゃえば、同性婚も異性婚も区別も差別もなくなってよくない?

 

なあんて。

 

選択的夫婦別姓、ですら、「日本伝統の家族観を壊す」なんて、「その伝統いつからの話?」って突っ込みたくなるような理屈並べて反対する人の多いお国柄ですからね。

 

『個』籍、なんて言いだしちゃったら、目くじら立てて、どころかアレだよね、アレ、富士山が大爆発するくらいの勢いでバッシング食らうんだろうねww

 

でも、日本って、国も国民も、もっと『個』に目を向けた方がいいと思うんだー。

(ちょっと香ばしいもの書いちゃったww)

 

「ねこにもこせきあるでしか?」

今はないね。でも、幸ちゃんと福ちゃんには、マイクロチップが登録してあるから、「どこの子でし」って、すぐ分かるよ。

「ホントでしゅか?ホントのおうちに行っても?」

ホントのおうちに行っても!

 

後ね、糸井重里さんのほぼ日刊イトイさんで『ドコノコ』っていうアプリ(iPhone→、Android→)があってね!『うちの子』でも『まちの子』でも登録できるんですよ!『いぬねこの住民登録』ていうコンセプトなんですって。

「どこの子も、うちの子」!

 

もちろん、こむぎも幸福兄妹もブック持ってますよー(^o^)/

――

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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JUGEMテーマ:ニュース

お見舞いの言葉は被災者には届かない。

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このエントリーには、こむぎも幸福兄弟も一切出てきません。内容的に不快になる方もいらっしゃると思いますので、なんならスルーしちゃって読まないでくださいね。

―――――

今回の栃木県の鬼怒川氾濫による被害は甚大で、被災された方も非常に多くて、被災地以外のたくさんの方が心を痛めていらっしゃいますね。わたしが毎日のようにチェックする犬ブログでも、被害に合われた方へのお見舞いの言葉を書いていらっしゃる方は多いです。

そのことは、全く悪いことではないし、そこには善意しかないと思っています。

ですが、わたしはそういう言葉を自分が発しようと、全く思わなかったのです。むしろツイッターでは、救助活動に尽力される自衛隊のことを知り、自衛隊には『軍隊』にはならず、今のままの災害の時に救助に駆け付けてくれる自衛隊で居てほしい、というようなことばかりを書いていました。

そんな中、相互フォローの方が、「災害に乗じて、右も左も自分たちの主張をここぞと言い立てて、他人のことなんて考えてないことが分かる」という旨のツイートをされていて、ちょっとドキリとしました。これは、自分に向けられた言葉かもしれない、と。

それで、どうして自分は被災者を気遣うようなツイートをできなかったんだろう?と省みて、これだろうな、と思う理由が2つあることに気づきました。

一つは、わたしが生来、そういった『遠くにいる人』まで思いやれる想像力とか共感力を持ち合わせていない、ということです。同じ境遇の人、例えば、うつや、他の精神的な事で苦しんでいる人に対しては、会ったこともなくネットで言葉を交わすだけの相手にも共感したり、自分の経験を語って、少しでもヒントになればいい、楽になってもらいたい、と思ったりできます。

でも、ほんとうに見知らぬ、接点のない、ネットの向こうの不特定多数の人に対して、共感を持つことが、気持ちを寄り添わせることが、できません。それは、わたしの欠陥でしょうね。

もう一つは、わたしが、ネット上で即日示される見舞いの言葉が、決して当の被災者に届くことはない事を知っているからです。何を偉そうに、被災者でもないくせに、と言われるかもしれませんね。

特別ネットやパソコンの知識がなくても、誰でもが気軽にツイッターやブログで発信することができるようになって、最初の大きな災害が、おそらく東日本大震災だったと思います。

わたしは、その時つくば市にいて職場で地震に遭いました。幸い、職場ではけが人もなく、建物も無事で、1時間ほどの屋外退避の後、各自帰宅するように言われました。

車で5分のところに借りていたアパートに帰ると、うちの中はぐしゃぐしゃで足の踏み場もなく、テレビは吹っ飛んでるし、棚なども倒れていました。そして、すぐに夜になりましたが、もちろん停電で真っ暗。母が災害に備えて用意していたラジオと、わたしのiPadだけが情報源でした。

わたしがツイッターを始めたのは2010年のことですが、まだその頃はツイッターのサービスが普及してはおらず、新し物好きの友人が始めたので、その人と話をするために始めたようなものでした。現在のツイッターしか知らない人には、分からないかもしれませんが、それこそ身内だけのチャットのようなものでした。

でも、震災で停電のためにテレビも見ることができず、何も様子が分からない中、ツイッターはとても活躍しましたね。わたしは、東北を津波が襲ったことも、福島で東電の原発が事故を起こしたことも、ツイッターで知りました。そのくらい、ツイッターは大切な情報源になりました。

当時は、まだツイッターでお見舞いを表明する人はいませんでした。「がんばれ東北」みたいな言葉が流れ始めたのは、震災からしばらく経ってからのことでした。

もし、あれが今だったら。たぶんたくさんの「被災された方にお見舞い申し上げます」「被災地のことを心配しています」という言葉が飛び交ったでしょうね。

だけど。もしあの時、そんな言葉がTLに氾濫していたら。

正直、いらない、情報が流れていってしまうからやめてくれ、と思ったと思います。また、当時決まったブログをチェックする習慣があって、そのブログにお見舞いの言葉が書かれていたとしても、わたしは読むことができませんでした。停電が復旧しても、部屋の片づけとかでパソコンどころじゃありませんでしたから。

だから、わたしにとって、ツイッターにお見舞いの言葉を書くのは、邪魔でしかありません。もっとも、自衛隊云々のツイートだって邪魔ではありますが。また、ブログで(当日または数日の間に)お見舞いの言葉を書いても、残念ながら、当の被災者は読まないことを知っています。

ツイッターであれ、ブログであれ、不特定多数のネットの向こう側の人に対してお見舞いを書いても、それは、言葉はアレですが、屁のツッパリにもならんです、みたいなもんです。もちろん、書かれる方は、善意からだし、被災者のことを思うと書かずにいられない、自分達はなんの変わりもない日常に居ることがすまないような気がする、という思いもあると思います。

それが間違ってるとは全く思いません。ただ、単純に、自分がぷち被災者になった経験から、それは届かないよ、と思うだけです。当人の自己満足か、お見舞いの言葉を添えたから、という免罪か、そんなものでしかない、としか言いようがないだけです。

こういうことを書いてると、自分がお見舞いの言葉を書かなかった言い訳だろ?と思われるでしょうし、それで構わないと思っています。確かにある意味、言い訳ですし。上述のとおり、なんでお見舞いの言葉を書かなかったんだろう?という自分への問いかけの中で出てきたことですから。

でも、今日幾つかのブログで、お見舞いの言葉を見て、正直白けた気持ちになったのは事実です。

もし、震災の時、ブログを見ることを楽しみにしていたら、ブログを見れるようになった時、いつもの楽しかったり癒しだったりする普段通りのブログの方が、慰めになった気がします。むしろ、「がんばってください」とか「お見舞い申し上げます」とか書かれてたりしたら、当事者じゃないから言えるんだよ、って反発したかも。

だから、もしどうしてもお見舞いの言葉を言わずにいられないなら、数日後にするか、当日から毎日のように書くか、の方が届くと思います。当日だけ、お見舞いの言葉が書いてあって、その後はなんにも書かれてなかったら、ああやっぱり形だけの言葉か、って思っちゃうかも。

そんなひねくれたこと考えるのは、わたしだけかもしれませんけども。

このエントリーを読んだ方の中には、不快に思われた方が少なからずいらっしゃると思います。そういう方には、不快にさせてしまったことを、先にお詫びしておきますね。

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Tシャツプロジェクト2015福島

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いつも楽しいネタ、ゴン太郎劇場で楽しませてくれるねぇやんさんのブログ【飯の為なら なんでもするズラ】さんに、【Tシャツプロジェクト2015福島】の記事が掲載されました。

これは、ねぇやんさんの会社と同業者の社長さんが、福島に取り残された犬猫のためになさっている支援活動の一環です。

Tシャツプロジェクト2015福島:素敵なデザインのTシャツの売り上げで、福島に取り残された犬猫たちにTNR(T=捕獲、N=避妊去勢手術、R=リリース(元の場所に放す)を行い、これ以上福島に不幸な動物が増えないようにする活動を行うプロジェクトです。

以下、【飯の為なら なんでもするズラ】より転載。

社長より

東日本大震災被災地かつ原発被災地に残された動物たちに
ご飯と適切な医療を届ける活動されている団体、個人を
微力ながら支援するため、また不幸な命を増やさないための活動TNR
T=(Trap)捕まえる
N=(Neuter)避妊・去勢手術を行う
R=(Return)元の場所に戻し一代限りの命を見守る
活動の為にチャリティTシャツの販売を開始致します。
1枚 ¥2500 送料込みです。

収益は
 ◎ 福島被災動物レスキュー RAIFさん

◎ かつらお動物見守り隊さん

◎ 原発とは関係ありませんが アニマルクラブ石巻さん

に寄付させて頂く予定です。


ご支援、ご協力のほどお願い申し上げます。

ご注文はこちらのサイトからお願いします

Tシャツプロジェクト2015福島


【Tシャツプロジェクト2015福島】記事内には、社長さんよりねぇやんさんに送られた、活動報告書の画像も掲載されていますので、ぜひご覧ください。4年以上がたった今も、被災者の方々がたくさん仮設住宅に取り残されているのと同じく、たくさんの犬猫が、人の居なくなった被災地に取り残され、過酷な環境下で生きています。写真もありますので、ぜひ。わたしは切なくて涙ぐんでしまいました。

わたしも1枚だけ、購入しようと思っています。たくさん買うお金はないので。でも、たくさんの方が1枚ずつ購入して下されば、大きな力になると思います。

「誰も猫を殺処分したくはない」

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JUGEMテーマ:ペット

以前、高知県小動物管理センターを批判する(むしろ非難する)内容のブログがある、という記事『小動物管理センター』をポストしました。

今回、はるかぜちゃん(@harukazechan)のツイート

何の罪もない子猫を、何の罪もない人が殺している。たとえどんな事情があろうとも、見ず知らずの他人がこの役目を請け負ってくれている限り、持ち込みに至ったことを決して正当化してはいけない。これが、保健所持ち込みに対してのぼくの考えです。; ♔はるかぜちゃん ♔ (@harukazechan) 2014, 8月 19日


で、高知県小動物管理センターを取材したHuffPostJapanさんの良記事を読んだので、ご紹介したいと思います。


『誰も猫を殺処分したくはない―命の現場が抱える葛藤と現実―』 @HuffPostJapanさんから

センターの抱える現実、実際に動物たちと接し、動物たちを殺すスイッチを押さざるを得ない職員さんたちの葛藤。

責められるべきは、センターでも職員さんたちでもなく、センターや保健所に犬猫を持ち込む人々です。

飼えなくなったから、産まれちゃったから、人を噛んだから、吠えるから、(犬猫が)年を取って世話が大変になったから・・・

そんな身勝手な理由で、犬猫を持ち込む人は絶えません。絶えないから、センターでは全ての動物を救うことはできず、殺しているのです。

もちろん、高知県の小動物管理に関して、問題がないとは思いません。猫を収容する施設がないから、猫は即日処分とか、今後改善されるべきことですが、現に今そういう方向に進んでいるとも書かれています。

わたしたち一般の個々人にできることは限られています。でも、それはセンターや職員さんたちを責めることでも、ましてや電凸と言われるようなことをして業務を滞らせることでもありません(業務を滞らせることは即ち保護された犬猫の世話を邪魔することです)。

まずは室内飼育を徹底したり、子猫子犬が産まれても面倒がみれないなら避妊去勢をしたり、自分の飼い犬飼い猫にしてあげられることがあります。もし望まない妊娠出産をさせてしまったなら、産まれてきた子達に必ず新しい飼い主さんを探してあげること。

吠えるから、噛むから、というのは犬が悪いのではありません。人間がきちんとした接し方をしていないからです。訓練所に通うお金がなくても、ペットショップなどで無料や低価格のしつけ教室が開催されたりしているから、利用したらいいと思います。

そういう手を尽くすことなく、手間を惜しんで、センターや保健所に犬猫を持ち込むことは、犬猫の命を奪うという重い責任を容易く他人に押しつけていることなのです。罪もない職員さんたちが、罪もない動物たちを殺す責任を背負わされているのです。本当は、殺さざるを得ないなら、持ち込む人が自身の手で行うべきなのです。

犬猫だって人間と同じ命です。それを人間が「要らない命」として殺してしまう。人間だけが尊い命なのですか?

食べられて、人間の血となり肉となる家畜ならば、まだ命を奪われる『意味』があります。人間は、「命をありがとう」と手を合わせて頂くべきです。

でも、殺処分される犬猫は「要らない」から「ただ殺される」のです。どこにも繋がることのできない死。

「要らない」からと安易に持ち込む人々、「殺処分をしているから」とセンターや職員を責める人々は、ぜひこの記事

『誰も猫を殺処分したくはない―命の現場が抱える葛藤と現実―』 @HuffPostJapanさんから

を読んでみてください。

そして、それぞれの立場でできることは何かを考えてください。

わたしはいま、自分のことと愛犬こむぎのことで精一杯で、これ以上何かをすることはできません。今、わたしにできることは、こういう記事を拡散して、現実を知ってもらい、保険所やセンターに持ち込む人が一人でも減ることを祈ることだけです。自分の無力感に打ちひしがれています。いつか、ほんの少しでも、殺されていく命を減らすために何かできるようになりたいです。

あさこはうすさんへ

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大間原発建設に反対して、土地を売らずに頑張ってくださっているあさこはうすさん(〒039-4602 青森県下北郡大間町字小奥戸396)。

あさこはうすに通ずる道を、東北電力が封鎖してしまえないよう、郵便局員さんに通ってもらうため、ハガキを出します。


内容は、全く原発に関係ないはがきですが^^;
 

今日も元気に

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原発いらない!



ってことで、大間原発建設予定地で土地を売らずに頑張ってくださる、あさこはうすさんにハガキ出してきまーす!
 

『救える命』

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最近見つけてはまっているブログがあります。『飯のためなら なんでもするズラ!』・・・岡山県のとある鉄工所の警備犬として勤務するゴン太郎君のブログです。とても面白いです。

ブログ主「ねぇやん」さんは、ボランティアとして、保健所に収容された犬猫を引き出し、一時預かりをして里親さんを探す活動をされています。

いつも楽しいネタ満載のブログですが、保護された犬猫のことを語る時、時に切ない真摯な言葉が並びます。とても考えさせられます。

その中で掲載されていた動画『救える命』・・・観ていて切なくなりますが、とても優しい動画です。怖い、辛いシーンはありません。よかったら観てみてください。



ペットショップで買わない飼い方もあります。

STAP細胞騒動に思うこと

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世の中が騒いでいる、いわゆるSTAP細胞騒動については、サイエンティストのはしくれだった身として、思うところがあるので、つらつらと書いてみたいと思います。

ただし、わたし自身はSTAP細胞発見のニュースも、理研の調査結果報告の会見も、小保方氏の会見も、断片的にしか見ていません。ここで書くことのベースになっているのは、新聞社やテレビ局のWEBニュース、WEBに掲載されたいろいろな立場の方の解説または解釈、おもにtwitterで発言された科学者および一般の方の解説または感想です。

わたしは、今回の件に関しては、二つの論点というか、多くの人の興味の対象があると思います。一つは、STAP細胞が実際に存在するかどうか。もう一つは、小保方氏がねつ造などの不正をしたかどうか。

前者に関しては、再現実験を待つ以外にないと思います。存在するか否かは、今の時点で決着はつかないだろうと。後者に関しては、小保方氏の説明を断片的に聞く限りにおいて、捏造まではいかなくても、研究者なら本来持っているべき倫理観や、あるいは論文を書く上での常識が欠如していたのではないか、と思っています。以下、それぞれについて、思うところを述べます。

【再現性の問題】

本来、科学論文は、それが提示する内容が第三者にも再現できる、ということが前提になっています。

が、小保方氏が少し触れていたように、「コツ」が存在するのも事実です。特にバイオの世界では、もともと複雑な生命現象にかかわる研究・実験ですから、結果に「揺らぎ」のようなものが存在します。その「揺らぎ」を超える「現象」があったときに、初めて「○○の結果が存在する」と言えます。

「コツ」に関して言えば、わたしの行った実験でも「コツ」があり、わたし自身は4年間(博士課程は3年ですが、途中病気で休学したため4年かかりました)で数百枚以上のプレパラート(標本)を作製しましたが、わたしの研究を引き継ぐ後輩の学生さんにはどうしてもきれいなプレパラートが作製できませんでした。第三者による再現性、という意味では、わたしの研究も「不備」があったと言えるかもしれません。わたしが論文で示した酵素処理の条件で、細胞壁や細胞膜を取り除くことはできていたと思いますが、無数の細胞が入った処理液をプレパラートに展開するときに、細胞が重なりあわないようにするのに、やはり「コツ」のようなものがあったのだと思います。

ですから、小保方氏にはSTAP細胞が作出できて、第三者にはできない、ということは十分あり得ると思います。つまり、きちんとした作出方法が確立されていても、それを再現するには習熟が必要だ、ということもあり得るということです。機械が行う実験ではないので、実験を行う人間の習熟が必要なことはあると思います。

したがって、再現性の有無に関しては、これからの追実験を待つほかないと思います。

【ねつ造の有無の問題】

小保方氏は、自分が未熟であったことを謝罪していますが、わたしはここまで「未熟」な人が何故博士号を取得できたのか、が疑問です。

普通の方には馴染みのないことではありますが、博士論文を提出するには、きちんとした要件をクリアしていることが求められます。通常は、査読論文(審査を受けて掲載の可否が決定される雑誌に掲載された論文)が複数必要です。わたしが学位を取った地方の連合大学院(一つの大学では大学院が維持できないため、複数の大学が共同で大学院を設置したもの)でも提出要件は査読論文が2本です。これは、はっきり言って最低レベルの要件です。それでも、2本は査読に耐え、掲載されることのできる論文を書かなければならない、ということです。この査読論文を書いていれば、今回の騒動で指摘されているような剽窃はあり得ないはずです。武田邦彦先生が、「科学論文は公知であるから著作権がない、したがってコピペは問題ない」とおっしゃっていますが、わたしはそれは違うと思っています。著作権がない点についてはその通りだと思います。が、出典を明示しないでコピペをしてしまってはいけないのです。何故か?それは文章の剽窃である点も問題なのですが、出典が明示されていることで、読者が当該研究の流れを知るために、論文を遡って読んでいくことができるからです。わたし個人の考えかもしれませんが、引用文献として出典を明らかにするのは、その研究がどういう流れの中に位置するのかを明白にする上で不可欠なことと思います。

本来、博士論文が提出に耐えるかどうかは、研究室の指導教官が確認しているはずです。提出に耐え、さらには審査にも通るものでなければ提出させないのが指導教官の役割です。もし、論文を書くにあたっての指導もせず、内容が提出に耐えるか否かを確認せず提出させていたのなら、それは小保方氏ではなく、指導教官の罪です。この点において、早稲田大学はきちんと答えられるのでしょうか?調査をして学位はく奪をするかどうか決める、と言っているようですが、そういう論文を通した大学院側こそ責められるべきです。

また、図の取り違えを「悪意のないミス」と主張しているようですが、わたしとしては、悪意があるかないかは関係ないと思っています。悪意の有無にかかわらず、ミスはミス。それが、たぶん『科学の世界』です。わたしの時代はまだフィルムの時代で、現像した写真が数千枚になりました。全部、細胞の写真なので、きちんと管理しなければその写真に写っているのが何の細胞なのかは分からなくなりますから、保管にも気を遣いましたし、論文に使用するに当たっては細心の注意を払いました。今はデジタルデータになっているので、確認が難しい面もあるかもしれませんが、逆にファイルのそれぞれにきちんとした名前を付けておけば、取り違えは防げるのではないでしょうか?

「わかりやすい図にしたかった」ということもおっしゃっていますが、わかりやすくするには生のデータ(写真)の時点でわかりやすい物を撮影する以外にはありません。切り貼りをして見やすくしたものは、それは不正と言われても仕方ありません。たとえば、ここからここまでがAという領域でここからここまでがBという領域であることを、わかりやすくするために写真を加工して着色したりする場合も、少なくともわたしが現場にいたころの常識では、着色していない原図と並べて示すものでした。それが「わかりやすい図」というものです。

正直、小保方氏を叩くことに躍起になっているメディアも、逆に「STAP細胞があるなら、その手続きに不備があってもいいじゃないか」という擁護論も、わたしにとっては『科学』とはほど遠いもので、ナンセンスです。一方で、ただ「STAP細胞はあります」としか言わない小保方氏の会見も『科学者』としての態度とは思えません。「それじゃ納得できないよ」という感想しか持てません。





 

ベビーシッターによる2歳児死亡ニュースに思うこと

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今日も、ニュースでやっていましたね。ベビーシッターが預かった子どもを死なせたかもしれない事件(わたしが見たニュースの範囲では、死体遺棄で逮捕されたけど、死亡に関与したとはまだ言ってなかった)。

これに関して、ベビーシッターの男性を責める人、知らない人に預けてしまった母親を責める人、両方がいるようです。

わたしは、無責任にベビーシッターの仕事をしていた男性には怒りを覚えます。

が、母親には怒り切れない。どうして、ネットでしか知らない他人に幼子を預けたのか?そういう風に母親を責めることは容易い。

でも、そういう風に責める人たちは、その本当の「どうして」を考えていない。

わたしが見たニュース(モーニングバード)では、母親は収入が少なく、今回のベビーシッターの料金は収入の半分に達していたと言っていました。安価なシッターを選んでさえ、そうなのです。母親が、たとえ知らない他人であれ、安価なシッターに頼らざるを得なかった事情を考えなければなりません。

働き方やライフスタイルが多様化して、従来の保育園や幼稚園ではカバーしきれないこと。従来の保育園でさえ、待機児童の問題があること。ひとり親、特に若い母親の貧困。

そういう背景を見ずに、知らない他人に預けた母親を責めても、意味がありません。

わたし自身、働く母親の元で育ちました。産休が短い時代で(母親の先輩の時代は産休すらなかった)、生後一ヶ月でわたしは他人に預けられました。四十年以上前の田舎ですから、ご近所のおばあちゃんでした。もちろん、幾ばくかのお礼を差し上げていたはずです。3歳になった頃、今の住所に引越し、母親の実母に預かってもらえるようになりました。母親は、おやつ代として、やはり祖母に幾ばくかのお金を渡していました。

わたしのケースは非常に恵まれたケースです。稀なケースです。うちは両親揃っていての共働きで、かつ母親の実母に預かってもらえた訳ですから。

現在の都会の、さらにひとり親、若い母親では、預かってくれる方を探すのは至難のことです。

今回の事件でも、母親を責めるのは不毛どころか有害です。責める言葉を発している人は、ご自分が子どもを他人に預けざるを得ない事情のない恵まれた環境にあることを自覚してください。

いま、考えなければならないことは、子どもを安心して育てられる社会を作ることです。

わたしのつたない言葉より、問題がどこにあるかをきちんと解説している記事があるので、是非読んでみてください。
 

スポーツは『遊び』

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スポーツsportsの語源、ご存知ですか?

わたしも学生の頃に聞きかじっただけなので、正確なことは忘れてしまいましたが、確かラテン語で『遊び』とか『余暇』とか言った意味の言葉が語源だとか。

だから、スポーツは『体育』ではない。遊ぶもの、楽しむもの、だと。

日本では、『体育』とスポーツが混同されていると。体育はもともと、軍事教練の意味合いが強いから、統制の取れた、斉一性が求められるもの。遊びであるスポーツとは根本から違うのです。

だから、わたしはスポーツは楽しむべきだと思っています。それはアマチュアであれプロであれ。草の根であれオリンピック選手であれ。

勝たなければならない、などという悲壮感や、国の威信を背負ってやるものではないはずです。

でも、今の日本では全く違いますね。悲しい、貧しいことだと思います。

スポーツをする本人が勝つことを目標に努力するのはいいことだと思います。が、観る側が、それを押しつけるのは、勘違いも甚だしい。

歯を見せたらいけない?とんでもない!余裕があっていいじゃないですか!リラックスしている方が、実力を出し切れます。

負けてる時に笑うな?とんでもない!負けてる時こそ、硬くなります。だから、無理にも笑顔を作って力を抜かないと思うようにプレイできません。

日本人は、とかく眉間に皺を寄せることが大好き。スポーツに限らず。でも、眉間に皺を寄せたから成果が出る訳ではありません。それはポーズでしかない。

せめてスポーツくらい、する人も観る人も、楽しくやりませんか?

と、ソチのオリンピック・パラリンピックの報道を見て思いました。
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